「なぜ、住宅をゴミにしてはいけないのか」

ところで、ゴミとは一体何なのでしょう。台所から出るゴミは、ゴミとして処分されているからゴミですが、土に埋めておけば自然に土になってしまうので、実はゴミではありません。いずれ地球に同化するものをゴミとは言いません。ゴミとは、地球に同化できずに永久に残る物を言います。私が造りたい住宅は木や土で造るので、処理の仕方によってはゴミになりません。しかし、工業製品で造られた住宅は、同化できない材料でできているのでゴミになってしまいます。

住宅は、いずれ(未来に)解体されます。そのときにゴミにしてはいけないのです。何故未来において住宅をゴミにしてはいけないのでしょうか。その明確な意味を私は柄谷行人の本から知ることができました。

『二十世紀後半において明瞭になってきたのは、産業資本主義の発展が、自然史的に見て決定的な限界に直面していることです。具体的に言えば、グローバルな環境破壊、エネルギー・食糧不足などが差し迫っています。われわれが現在の生活水準を維持するかぎり、この危機を全面的に招来することは不可避的です。その悲惨な事態を体験するのは、未来の他者です。しかし、それがわかっていても、このような環境破壊をもたらす産業資本主義的発展を止めることは、幸福主義(人が幸福であることは善である=資本主義の原点)の原理からは出てこない』(「原理」)

この未来の他者について、私たちは次のような義務を負っていると柄谷行人は言います。

『(私たちが)自由であるためには、未来の人間、今ここに存在しない人間を自由たらしめることが同時に要求されるのです。たとえ生きている者の間に公共的な合意が成立したとしても、それが倫理的に正しいとは決まっていないのはなぜか。われわれの「幸福」が、未来の他者をたんに手段として扱い、目的(自由な主体)として扱わないことによって獲得されるものだとしたら、それは倫理的でないからです』

今私たちが造る住宅が未来にゴミになるのであれば、未来の人に不自由を押し付けることになり、未来の他者を私たちの生活の手段として扱うことになるというのが、その理由です。住宅を造る現在は、捨てるという未来とともに構成されているのです。

私が造りたいと考えている木造住宅の意味は、ここにしか見出せないだろうと強く思います。

 

ゴミを考えてきて、少々コストがかかっても、最初に書いた造り方を続けるべきだと思っています。しかし将来にゴミにならないような可能性が本当にあるのか、と良く問われます。分かるけど、理想論だよねという反論です。しかし造るという行為は、そのようなことだとしか思えないのです。人間はそのようにしか造ってはいけないのだと、私は思っています。わたしは、大工塾という大工さんとの勉強会を20年ほど続けてきましたが、そこに参加してもらう大工さんのほとんどが、同じように考えています。自分の現場では、合板も石膏ボードも一枚も使わないとがんばっている大工さんもいます。先の反論は、そのような大工の努力に如何ほどの意味があるのだろうか、という疑問に通じますが、住まいを造りたいという動機は、木や土で住まい造ってきた人間の過去が詰まっている現在に発するものです。その方向性は未来の人に不自由を押し付けない、ゴミを出さない、ということにしか有り得ないと、私は考えています。

写真:現在主流の住宅の中に建てられた、土壁の小住宅。自然乾燥された材木は大工によって加工されて組み立てられている。外周の壁は土壁。

図:ちょっと古いデータですが、先進国と呼ばれる国々でどのくらいの住宅が建てられてきたかをグラフに示したもの。日本とアメリカが突出して多くの住宅を造ってきた。両国とも、住宅建設を経済成長の手段の一つとして利用してきた。日本の人口はアメリカの半分以下にもかかわらず、建設戸数が上回る時期がある。